ふるさとを離れて
迷わず外の世界へ
生まれた場所で大人になる人もいれば、郷里を離れて暮らす人もいる。ふるさとへの愛憎だけでは語ることのできない、さまざまな人生の背景がそこにはあるが、“外の世界を見てきたからこそ”見える故郷の姿もある。
尾道市で生まれ、高校卒業まで尾道で育った前田さんも、一度は故郷を離れた人の1人だ。尾道を飛び出し、大阪、千葉、東京、バンコク、神奈川と居住地を点々と移したのち広島県へと帰郷し、2020年には実家のある尾道市へUターンした。

母国が見舞われた
未曾有の事態
祖父母は、四国遍路の巡礼者をガイドする先達(せんだつ)を務めていた。その背中を見て育った前田さんは、幼い頃から仏教の考え方や祈りの行為について親しみを持ち、曼荼羅に惹かれたこともある。
「高校を卒業したら、絶対に県外へ出るって決めていました」と話す前田さん。タイ語を活かして仕事がしたいという想いから、大学ではタイ語を専攻した。
大学卒業後は、希望を叶えてバンコク暮らしを実現。海外生活を楽しんでいたのもつかの間の2011年3月、異国の地で東日本大震災の報を受け、帰国を決意した。

広島県庁へ転職、
移住促進の担当者に
帰国した前田さんは、東京暮らしを経て広島県へ入庁。配属された部署のミッションは、主に移住促進だった。広島県は全国のなかでも転出超過問題が叫ばれているが、その一方では県外でキャリアを重ね、帰郷を望む人たちも確かに存在している。
「自分もそうだったので、若い人たちが県外へと向く気持ちはとてもわかります。外に出たっていいじゃない、とも思うんです」。前田さんは考えながら、そう話してくれる。
しかしその上で、「いつか広島に戻りたいと思ったときに、働けるところ、住む場所がしっかり整っていないと」とも言葉を続ける。前田さんを故郷へ再び引き寄せたのは、改めて見つめた瀬戸内の多島美や、尾道水道の立体的な風景。子どものころは当然すぎて気にも留めなかった原風景たちは、静かに変わらない魅力を放っていたのだった。

ふるさとである尾道を
ダイバーシティなまちへ
現在は、小学生になる元気な娘と2人、実家のそばで暮らしている。1時間半かけて職場へ通うが、都内でぎゅうぎゅう詰めの満員電車を経験した前田さんにとって、混雑の少ない新幹線通勤はちょうどよい“自分時間”。また、テレワークが認められていることも子育て家庭にはありがたい。
「昔あんなに出たかった尾道だったのに、帰ってきてよかったと思います」。休日は子どもと山登りや海水浴、レモン狩りを楽しんでいる。第2の故郷であるタイにも、もう少し頻繁に足を運びたい。広い世界を知ったからこそ、忙しい毎日の中に自分だけの楽しみを見つけられる。
「尾道にはダイバーシティなまちになってほしい」と明るく語る前田さんは、通訳案内士の資格取得に向けて鋭意勉強中。かつて田舎をうとましく思ったこともある高校生はやがて大人になり、故郷・広島での暮らしをめいっぱい満喫している。
